伊藤 紺
秋の孤独は気持ちいい。静けさ、落ち着き、その奥に可憐さを残した花々の香りにひらける記憶。思い出すのは「誰か」ではなくて、その人を見ていたわたしのふたつの目。まっすぐ、恋しく、時に憎く、ただ眺めていたその時間も、たしかに残っていくものです。
ひらいていく、秋の香り
季節限定の香り“フォールブーケ”にちなんで詠まれた短歌は、記憶が呼び起こされるような感覚と、凛とした余韻が印象的。香りから言葉が生まれるまでのプロセスは、どのようなものだったのだろう。
伊藤さん
香りのイメージを短歌にするというのは、初めてのことでした。まずは香りを確実に把握するために、毎日匂いをかいで、思いついたことを書き溜めていく作業を一週間くらいかけてやっていました。季節の香りということで秋の曲を聴いたり、写真を見たりして、秋自体のイメージを自分の中で煮詰めていく作業もありましたね。続けているうちに“思い出す”というキーワードが出てきたんです。ひとりでいるときに記憶の奥が開けるような感覚というか、そんなイメージ。そこからは自然と作品に入っていけて、何を“思い出す”のがいいのかなど、詳細を考えるのが楽しかったです。個人的にも思い入れのある作品になりました。この香り自体もすごく好きです。いい香り。
表現するということ
感覚的なものを言葉に変換することは、そう簡単ではない。香りと言葉、感覚と表現を行ったり来たりしながら行う作業の中で、限りなく近いものを求めようとする伊藤さんの姿勢には、言葉に対する誠実さを感じる。
伊藤さん
想像以上に難しかったですね。香りそのものがひとつの体験として、言葉よりもっとリアルじゃないですか。だからそれを言葉で表現するとなると、ちょっと嘘っぽくなってしまったり、付箋を貼る作業になってしまったりする。あと、こういう場に書かせていただくなら自分ひとりがしっくりくるだけの短歌では面白くないですよね。香りの成分はなるべく客観的に把握したかったし、当然OSAJIらしさ、秋らしさもしっかり込めたい。なので、匂ってはメモしてっていうのを何度も繰り返して「近づいてきたな、ずれてきたな」というのを探りながら導き出していきました。「これ近いかも!」っていうところに辿り着けたときは、森からやっと出られたような感じでした(笑)。
心のデトックス
歌人を軸に、幅広く活躍している伊藤さん。そもそもなぜ、短歌を詠むようになったのだろうか。
伊藤さん
私、しゃべるのがすごく下手なんですよ。短歌を始めたのも多分それがきっかけというか、原因ですね。大学生の頃から、みんな自分の話をしたり意見を言ったりしてる中で、私は思っていることがあるのに言葉が出てこないことが多くて。気付かないうちにフラストレーションが溜まっていて、そんなときに短歌と出会ったんです。急に俵万智さんのあの有名な『サラダ記念日』の歌を思い出して。「短歌、面白いかも」って。短歌の場合、31文字にどれだけ時間をかけてもよくて、詠むことで自分の気持ちにも出会えるというか、形になっていく。話すのが苦手で言葉とちょっと遠いところにいたからこそ、その作業が楽しくてしょうがなかったし、得意になったのかもしれません。
“歌”である
ビジュアルとは対照的な情報量であるにもかかわらず、限られた文字数の中で表現される言葉によって、目の前に情景が浮かび上がってくるのも短歌の魅力。人の心に作用する“歌”というものについて。
伊藤さん
抽象的な話ですけど、私は短歌というものを“歌”だと思っています。ジャンルとして詩というよりも、歌。じゃあ何が歌なんだと言われると、はっきりと具体的には言えないんですけど、歌が持つ力ってあるじゃないですか。つらいときに歌詞が響いて泣けてきちゃったりとか。ああいう力。声、メロディー、音の響き、リズム、そして言葉が組み合わさったときに生まれる不思議な力が、短歌にも働いているように感じるんです。それが出てこないと、「5・7・5・7・7」のただの文章って感じがする。短歌にはメロディーも声もないのに、歌になる瞬間っていうのがあるんですよね。作品は人によって解釈がまるで変わるので、今回の短歌もぜひ自由に読んで、みなさんが感じたように受け取ってもらえたらうれしいです。
水道のうすい匂いをのみこんで無理してないのに泣けてきちゃった
べつべつの人間なのに花の咲く匂いで一緒に笑えてよかった